日産自動車の始まり

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スカイラインやグロリアというクルマを世に送り出したプリンス白勤車工業株式会社の前身は富士精密工業株式会社で、さらにその前身は戦前の中島飛行機にたどり着くことになる。
中島飛行機は、戦前には三菱と並ぶ2大航空機メーカーで、陸軍戦闘機、海軍艦上攻撃機、海軍偵察機、爆撃機などの開発・生産と、
零戦や隼に採用された「栄20型」エンジン、その後継となるより商出力の「誉20型」エンジンの開発・生産を行っていた。
戦争後にこの中島飛行機は解体・分割され、そのひとつが中島飛行機・荻窪工場(エンジン部門)を母体にした富士精密工業である。
戦後はミシン、ディーゼルエンジン、特殊エ具、映写機などさまざまな機械を作って販売していた。
同じ頃に、やはり戦前の飛行機メーカーであった立川飛行機のメンバーが「たま電気自動車株式会社を設立し、
電気自動車の生産をはじめたが、朝鮮戦争を契機にガソリン自動車への転換することになり、富士精密に共同開発を持ちかけた。
かくして52年2月に登場したのがプリンス・セダンAlSHlI型である。
車体設計はたま側が、エンジ墓爵訂は富士精密が受け持っている。
このエンジンは当時の世界水準をぐOHVの動弁機構を持つFG4A型で、1.5lで45PSを発生。
そしてこのエンジンは、旧中島飛行機の後進のひとつ富士自動車工業(後の富士重工)にも供給され、当時最も先進的と称されたPl1型スバルにも搭載されている。
富士精密は弘年にたま電気自動車と合併し、いっぽう富士自動車は富士重工へと発展する。
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富士精密はAlSH型の後継モデルとして、54年4月にALSISIl型スカイラインを雲空零さらに59年2月にはBLSlPlI型グロリアを雪空元した。
なお61年に、富士精密はプリンス自動車エ業株器公蓉社に改称し、自動車のテクニカル・リーダーの地位堂固めた。
しかし66年8月に日産自動車がプリンス自動車を吸収合併し、スカイライン、グロリアは日産に受け継がれることになった。

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